はじめに──当サイトの置かれている立場
同人サークル「ナヲシダ社」は、今も続いているすべての理不尽で不当な表現規制に対して、はっきりと反対の立場をとっています。明確な理由もないままに表現が規制され、描かれるべきだった作品が形になることなく、ただ闇の中に葬られていくような状況を、私は決して受け入れる意思はございません。
なかでも当サイトが直接向き合っている法的規制──いわゆる刑法175条(わいせつ物頒布等罪)の運用については、「何が問題とされるのかがはっきりしない」「なぜいけないのかの説明も曖昧なまま」な仕組みだと私は受け止めています。そのため、サイトの運営者である私ナヲシダは、この法律と、自分がどうしても描かなければならなかった表現との間に、決して折衷できない倫理的な衝突が含まれていると感じている次第です。
私はこの衝突がもたらす感情的な不整合を無視するつもりはありません。むしろ私はこれを、「刑法175条に違反する可能性があるとされるわいせつ表現」を、あえてそのままの形で取り扱うという選択をとることで、現状の刑法175条が持つ理不尽で不当な規制のあり方が構造としてどのような問題があるのかを照らす機会にすべきだと判断しました。
私は直接の性器表現、わいせつ表現は心の底から好きだと断言できます。それを描くことは私の創作活動上の本義であると説明することも可能です。でもそれは、ただ単に好きなように描きたいというだけの営為ではありません。
ここで問い直したいのは、性器を描くことを描く前から抑制させかねないこの法律を、素朴に維持し続けることによって本当に守られているものは何か、逆にそれで奪われてきたものは何か――それを、自分の描く性器の直接描写を通して静かに照らす良い契機であるとして、実践的で現実的な営みに繋げられるものとなると私は考えたからです。
刑法175条が構造的に取りこぼす「純粋な性表現を求める営為」
刑法175条にある「わいせつ」という言葉は、法律が作られた当初から今に至るまで、その意味がとてもあいまいなまま使われてきました。その運用は、芸術や創作、記録、私的な表現にまで広がっており、「どこがどう問題だったのか」「それによって誰がどんなふうに傷ついたのか」といった、本来されるべき深い検討は、ほとんど行われてきませんでした。
ときには、表現者が静かに描いた作品が、性器が直接描かれていたという理由だけで「不適切」とされることがあります。そのとき、作品がなぜそのように描かれたのか、どんな文脈や意図があったのかが無視され、作品そのものだけでなく、作者の活動そのものまでもが、「性欲を徒らに刺激し、普通の人の性的羞恥心を害し、道徳に反する」といった、一方的な価値観で「排除されるべきもの」として扱われてきました。
こうした状況は、今の表現の現場とはまったくかけ離れたものであり、しかも制度としての一貫性も保てていないと私は考えています。本当は性器をそのまま描かなければならなかった、そうでなければ伝えられなかった、という表現者の切実な動機があるにもかかわらず、そうした表現は、修正・隠蔽・検閲・自主規制といった慣習によって、描かれる前から消されてしまっているのです。
私は、刑法175条のいまの運用のあり方に強い疑問を持っています。だからこそ、「どんな表現が、なぜ、どうして排除されているのか」を考える出発点として、このポリシーを公開することにしました。ここから、「表現を排除しない在り方」を少しずつでも模索していければと願っています。
どれだけ低俗な性表現も、そうでなければならない理由がある
創作の中で描かれる身体の表現や、露悪感情がむき出しのような描写は、たとえどれだけ低俗で、衝動的で、刺激的に見えるものであっても、そこにはそのように描かざるを得なかった動機や背景があるはずです。しかし、そのような背景や必要性が、形を持って受け止められることは今でもほとんどありません。多くは表面的な露悪さや露骨さをあげつらう形でしか議論は成立せず、それによる不毛な応戦や規制運動が展開されるなんていう事態も枚挙にいとまがないでしょう。
そして、このサイトで公開している作品の中にも、直接的かつ露骨な描写や、時には著しい残酷さを含むものがあります。でもそれらは、ただ過激にしたいから描いたものではなく、「性器を検閲なくそのまま描きたい」「そのまま描かれるものを見て楽しみたい」という、私自身の本来の切実な願いに基づいたものです。
これは、誰かを傷つけるために描いたのではなく、描かずにはいられなかった表現です。
このサイトに掲載される一つひとつの作品には、それを描こうとした理由があります。「こう描くしかなかった」「この描き方でしか成立しなかった」――そういう事情や感情を、たった一言の「わいせつ物」というラベルだけで排除してしまう構造に対して、私は強い疑問を抱かざるを得ません。
それは、これまで長いあいだ、プラットフォームや販売サイト、同人誌即売会など、あらゆる場面で当然のように行われてきた「修正」という名の検閲(Censorship)とも深く関わっています。私自身もその理不尽さに長年苦しみ続けてきました。形式として修正が求められる中で、本当に描きたかったものが描けない――そうした葛藤を多くの表現者が抱えてきたのではないでしょうか。
私は、性器を表現するならば、それを性器として、はっきりと描くことにこそ意味があると考えています。一切隠すことなく、そのまま描くことでしか成立しなかった作品があるのです。
逆に、「性器を描きたいなら、まずは隠して合法性を確保した上で、そこから表現の意義を語るべきだ」という考え方には、深い矛盾があります。最初から隠すことを前提にしていては、その表現が持っていた本当の意味や切実さは、そもそも形にならなくなってしまうでしょう。
さらに近年では、サービスやイベントが求める自主的な検閲だけでなく、AIによる自動判定や、ガイドラインに基づく説明なき削除、クレジットカード決済の停止などの経済的検閲、あるいは表現者に何の選択肢も与えない一方的な介入といったかたちで、「表現される前に抑えこまれる」ことが当たり前になってきています。
このような現状は、「表現をどう描くか」を自分自身で決める自由――すなわち「表現の自己決定権」を根本から脅かすものであり、私はそれに強く批判的にならざるを得ません。
だからこそ私は、「どう描くか」「どこまで描くか」を自分自身の手で判断するために、わいせつ物であることを自覚したうえであえてそれをそのまま掲載するという実践の場として、このサイトを立ち上げました。そこにある意義は、私にとって疑いようもありません。
よって、このサイトは次の方針に基づいて運営することで、この問題提起をより現実的に明確化しています:
- このサイトで公開しているすべての表現は、現行の法律が存在していることを認識しつつ、それでもなお違法性を問われる可能性がある構造を持っていることを自覚したうえで、「その法律自体の正当性を問い直す」という意味を込めて公開しています。
- 表現に対して制限が一切ないことを前提としているわけではありません。制限が必要かどうかを、私自身の内面的な倫理と責任にもとづいて判断し、そのうえで制作・掲載しています。
- 表現の受け取り方は、すべて閲覧者の皆さまに委ねています。サイトの利用にあたっては年齢確認を設けており、それを「同意」として、各自の判断に基づいてアクセスしていただくものとしています。したがって、作品そのものの存在を否定するような圧力や対応には、どのような事情があっても私は同意いたしません。
- 営利性や商業性を持ったコンテンツも積極的に取り扱っています。それは、金銭の授受というかたちで明確な合意がなされていることを前提として、無検閲表現を適切に扱う場としての責任を明確に意識しているからです。
- Xを含むSNSでの活動においてもこのサイトと同じく、無検閲の性器表現を扱うという姿勢を変えていません。ただし、「フォロー」「ミュート」「ブロック」など、閲覧者の側で自由に制御できる手段が用意されていることを前提にしており、それらの機能を尊重したかたちでの表現活動を行っています。
- 万が一、司法や行政の側から法的・倫理的な異議が寄せられた場合には、誠実な対話と丁寧な照合を行いながら対応を検討します。しかし、一方的な通報や断罪など、非対話的な方法による申し立てには、私は明確に反対の立場を取ります。
さいごに
閲覧者の皆さまにおかれましては、サイトに掲載されている作品や、私自身がこのサイト以外の場で行っている活動をご覧いただく中で、もし何かしらの違和感や不快感を覚えられた場合には、どうか無理に受け止めようとせず、静かにページを閉じていただければ幸いです。
この場所は、私の描く表現の正しさを誰かに押しつけるためにあるのではなく、「性器を正面から描くことが制限され続けている今の環境でも、それを残したい」という意思を持つ人間が、同じような思いを抱える人たちのために、ひっそりと開いている場です。
そして、もしこのサイトのあり方を見て「これは違法だ」「通報すべきだ」と思われた方がいらっしゃるとすれば、ほんの少しだけで構いませんので、「なぜ、ここであえて無検閲の性器表現を公開するに至ったのか」――その背景を想像してみていただけたらと思います。
法律が正しいかどうかは、「従っているかどうか」だけでは判断できないものです。長いあいだ、正当な理由もなく排除され続けてきた立場からすれば、ときに「法律に従うこと」こそが、かえって筋の通らない選択になる場合もあります。
そのことを、どうか忘れずにいてください。
私は、刑法175条が求める線引きの不透明な規制に対して、あえて従わないという選択を取る表現者が増えていくことを、決して「無責任」だとは考えていません。むしろそれは、不明瞭な制度に沈黙せず、自らの表現に意味を与え続けるための倫理的な実践だと確信をもって正当性を認めることができます。そしてそれは、本来もっと多くの人が選び得るべき、推奨されるべき営みであるはずだからです。
ナヲシダ社の活動は、単に性表現を趣味や仕事として楽しむためのものではありません。ここで語ってきたように、今なお続く表現規制の中で、自分自身がどのような表現を描くべきかを苦しみながら選び取る――そうした葛藤と覚悟の中で立ち上げた場であり、法的リスクと向き合いながらも「表現とは何か」を見つめ直すための、ある種の原点回帰のような活動として続けています。そして私は、そのようにあり続けることが正しいと信じています。
今後とも、わいせつ物であることを隠さずに表現し、伝えていくという姿勢を貫いてまいります。
文責:同人サークル「ナヲシダ社」CEO ナヲシダ
2025/04/11 – 記事の公開
2025/04/12 – 文章全体の調整と主張の整理を実施